▼書籍のご案内-序文

中医伝統流派の系譜



 東洋学術出版社の山本勝曠先生や戴昭宇先生、柴崎瑛子女史の協力により、このたび『中医臨床伝統流派』の日本語版を上梓できますことは、私の大きな喜びとするところであります。現在、中医学教科書にのっとった現代中医学が日本において急速に広まりつつありますことは、中日文化交流史上画期的な出来事といえます。ただし、ここで考えてておかなければならないのは、教科書とは規格化されたものであり、基礎や教室での教育に重きを置くものだということであり、したがって教科書だけに拘泥すれば、個性溢れる中医学の活力を損ないかねないということです。教科書とは、結局は初心者のための入門書でしかなく、中医学という宝庫を発掘整理するためには、より高度な知識と能力が要求されます。そこで日本における中医学のレベルをさらにステップアップさせるために、ともに中医学を学ぶ日本の友人たちに、各伝統流派の学術上の特徴と各流派を代表する医学者の独自の経験を紹介しなければならないと思うようになりました。なぜならば、中医学の発展史を知らなければ、中医学の現在と未来を見通すことができず、各流派の長所と欠点を理解しなければ、その中から最適な治療を選択することができないからです。また古代の名医たちの個性豊かな書籍を読むことがなければ、伝統的中医学の豊富な学術内容を知ることができないからです。
 それはとりも直さず、『黄帝内経』から現在に至るまで、連綿と続く書籍という宝庫であります。
 (原文序)
 この小冊子が中日医学の交流に貢献できるよう、心から望んでやみません。

南京中医薬大学教授
黄 煌
二〇〇〇年一月三〇日




 中国の伝統医学には約三千年という悠久の歴史がある。日本もまたそれを学び約千五百年にわたり伝統医学を培ってきた。この中国伝統医学を現在中国では中医学と呼び、日本では漢方と称している。
 ひとくちに中医学、漢方といっても、一様のものではない。中医学というと、整然とした揺ぎない理論に裏打ちされた医学のように思っているむきもあるが、決してそうではない。長い歴史を通じて試行錯誤がくり返され、多種多様の学派が形成され受け継がれてきたのである。日本も同じで、もとよりいわゆる復古的傷寒論を奉ずる古方派だけが日本漢方ではない。中国でも日本でも過去、さまざまの時代にさまざまの学派が現われ、著述がなされ、膨大な文献が蓄積されてきた。伝統医学の研究や実践において医史文献学的な知識が不可欠であるゆえんはここにある。
 一九八二年、私は初めて中国を訪れた際、北京中医学院中医各家学説教研室教授、故任応秋先生の知遇を得、以後何度も御指導を仰ぐ機会に恵まれ、中国伝統医学における各家学説なる学問の重要性を痛感した。すべてものごとを認識し理解するということは、分類するということから始まる。私は従来、中国伝統医学を書誌学的手法をもって検討してきている者であるが、以来、各家学説に対する思いは頭から離れることがなく、中医各家学説を説いた日本語版の書が出ることを待望し続けてきたのだが、久しく叶わなかった。
 このたび順天堂大学医学部医史学研究室の酒井シヅ教授のもとに留学中の南京中医薬大学の黄煌先生が日本の東洋学術出版社より御高著『中医伝統流派の系譜』を出版される運びとなり、すでに活字化されたゲラ刷を私のもとに携来され、不肖私に序を需められた。さっそく拝見して、はからずも長年の念願が叶えられることを知ったのである。
 本書は従来の中医各家学説を礎としつつも著者独自の卓見をもって再構築し、整理された斬新な書であり、日本で初めて出版される各家学説の書である。しかも中国のみにとどまらず、日本・朝鮮の医学にまで言及してある。私はゲラを拝読して教えられるところが多くあった。日本でこの書が出版される意義はきわめて大きい。
 本書は中国伝統医学の本質を学ぶうえで恰好の書である。日本の一読者として本書をお薦めすることができることは、私にとって光栄なことであり、求められるままあえて序文を固辞しなかったゆえんである。中国伝統医学、漢方に興味をもたれる方々が、一人でも多く本書を読まれることを願ってやまない。

北里研究所東洋医学総合研究所
小曽戸 洋
二〇〇〇年十月


はじめに

一、本書出版の主旨
 いわゆる流派とは、学術や芸術分野での派閥のことである。中医学には、個別的・経験的・地域的という固有の特性があるために、中医学に携わった歴代の名医たちは、複雑に入り組んだ数多くの流派に分かれている。しかし、後世流派の名称が統一されず、流派を区分するための基準さえも確立されなかったために、便宜的に以下のような区分方法が用いられている。
 たとえば使用薬剤の薬性が寒熱攻補のいずれにあたるかによって、「温補派」「攻下派」「寒涼派」「滋陰派」などの流派が分かれる。また使用する処方の新旧によって、「経方派」と「時方派」あるいは「古方派」と「後世方派」とに分かれる。またどの医学体系を崇拝するかによって、「傷寒派」「温病派」に分かれたり、その流派が活動した地域によって、「易水学派」「丹渓学派」「河間学派」「孟河医派」「呉門医派」などに分かれる。あるいは特定の医学者の姓氏を冠した「李朱医学」「葉派」「曹派」、医学分類を名称に用いた「新安医学」「呉門医学」「嶺南医学」などがある。また家名を冠した「金元四大家」、「孟河四大家」の丁家・費家・馬家・巣家などや、得意とする専門分野名をつけた「紹派傷寒」「竹林寺婦科」などがあり、このほかにも『傷寒論』の配列に関する解釈の違いによって、「錯簡派」「維護旧論派」に分ける場合もある。また近代では、中医論争における意見の違いによって、「改革派」と「保守派」および伝統的中医学に一歩距離を置く「中西匯通派」などがある。
 このように名称が統一されておらず、区分方法も一定していないという状況は、各医学者の学説を正しく認識評価するための妨げともなり、各医学者の臨床経験を共有および活用する際にも悪影響を与えかねない。このような現状を鑑み、中医学流派を概観するための小冊子を出版することの意義は大きいと思われる。

二、書名について
 書名については、以下の二点を説明しなければならない。
 第一は、「中医流派」と名づけた点についてである。中医学流派には、その診療体系に明確な特徴があり、その点で歴史上学術に影響を与えた名医たちは多い。しかし中医学には、総体観、内治を重視するという特徴があるので、本書では、考察範囲を内外科に限定した。小児科、婦人科、五官科、針灸、整骨、推拿、外治、養生を専門とする流派については、本書では言及していない。また、ここで取り上げている医学者たちはみな臨床家であり、それぞれが臨床についての独自の見解をもち、真摯に診療に取り組む名医たちの一群である。したがって、文献研究や純粋な理論研究分野の流派については、本書では取り上げていない。
 第二に、「伝統」と名づけた点である。すなわち伝統流派とは、文字通り伝統的中医学に位置を占める流派のことであり、歴史上に名を残している流派のことである。したがって、現代中医学が本世紀に入って発展する過程で形成された「中西医結合」などの流派もその一つに数えられるが、これらの流派はまだ発展段階にあり、実践を積むなかで歴史的評価を待たなければならない。

三、流派の区分について
 流派とは、自然発生的に形成されたものである。ただしそれが存在するためには、歴史によって認定されなければならず、さらには第三者によってその学術傾向をもとに区分され命名されなければならない。また流派が成立するための基本条件としては、流派を代表する人物と著作がなくてはならない。このほかにも、以下の四つの条件を備えている必要がある。
 (一)共通する研究対象  (二)近似した学術思想と学説 
 (三)類似した診療体系  (四)各医学者間での学術の継承と発展
 師伝と地域性は、中医臨床流派が形成されるための重要な要素であるが、流派を区分するための唯一の基準ではない。たとえ師伝関係がなくとも、あるいは同一地域に限定されなくとも、学術面での継承と発展さえあれば、一つの流派に帰属させることができる。したがって学術の継承と発展は、はるか遠い関係の弟子や私淑者、あるいは純粋に学術上の継承者であってもかまわない。

四、命名方法
 各流派の呼称の多くは、第三者や後世の人々によって、その流派の学術上の特徴が認められ評価された結果つけられたものである。本書では、各流派の命名に当たり、まずその流派の学術上の特徴を優先させることを基本原則とした。なぜならば流派を区分する目的は、各流派の学術思想および経験を利用するためであり、したがって学術上の特徴を名称として用いないならば、その流派に対する後世の評価をねじ曲げ、誤解を招きかねないからである。第二に、各流派の自己評価を尊重することとし、その流派の代表的人物や著作名、およびその学術論点から命名した。第三には、学術界で広く認められている命名方法や歴史的に習慣となっている呼称を参考にした。
 たとえば「通俗傷寒派」という呼称は、その代表的人物である兪根初の『通俗傷寒論』という書名と、現代の趙恩倹が用いた名称(『傷寒論研究』天津科学技術出版社、一九八七)を参考にしている。また「経典傷寒派」という呼称は、温熱病治療には『傷寒論』で十分に対応しうると主張するこの流派の特徴を考慮したうえで、通俗傷寒派と区別するためにつけたものである。
 「温疫派」「温熱派」「伏気温熱派」という呼称は、主にその研究対象からとるとともに、各流派の代表的著作から命名した。呉又可の『温疫論』、葉天士の『温熱論』、柳宝詒の『温熱逢源』がそれである。
 「易水内傷派」「丹渓雑病派」という呼称は、中医高等学校教材『中医各家学説』にある「易水学派」「丹渓学派」という名称を参考にするとともに、「内傷は東垣に法り、雑病は丹渓を宗とす」という歴史的に確立された評価にもとづいたものである。
 「弁証傷寒派」という呼称は、もともと『中医各家学説』のなかで「弁証論治派」と名づけられた流派である。しかし弁証論治は中医学のきわめて根源的な特徴であり、これを名称とすることは漠然としすぎている。そこで、『傷寒論』があらゆる疾病に適応しうると強調するこの流派の特徴を考慮し、ここでは「傷寒」という名称を用いた。これは「易水内傷派」や「丹渓雑病派」と区別するためだけでなく、「通俗傷寒派」「経典傷寒派」と対比させるためである。
 「経典雑病派」という呼称は、この流派が漢唐時代の経典を重視していることを考慮するとともに、「丹渓雑病派」と区別するためのものである。
 外科三派の名称は、その学術上の特徴と代表的著作名からとったものである。すなわち「正宗派」「全生派」「心得派」という名称は、それぞれ陳実功の『外科正宗』、王洪緒の『外科証治全生集』、高秉均の『瘍科心得集』に由来している。これらの名称は、現代の劉再朋がすでに一九五〇年代に命名したものでもある。
 民間医学とは、正統医学に相対した言葉であり、中医学の一部である。この流派は、独特の疾病認識と治療手段を有しているので、一つの流派として認識することができる。
 日本漢方と朝鮮医学の流派については、その国の命名方法にしたがった。

五、各流派の学術上の特徴と代表的人物
 学術上の特色とは、その流派に属する医学者グループ全体の特徴であり、臨床診療をも特徴づけるものである。
 では、その特色とは何であろうか? まず第一には、医学思想とその認識方法における特色であり、次には、研究対象に対する総合的な認識である。それはつまり、病因病機に対する認識、弁証綱領に対する認識であり、どの問題を重視し、どのような治療法を得意とするかなどに関わる認識である。さらには処方時の態度、特色、つまりどの方剤を頻用するか、臨床においてどの技術を得意とするかなどの特徴に関わってくる。
 一方、代表的人物とは、その流派に属する医学者個人の特徴ではあるが、その医学者の生涯、著作、学術思想、臨床上の特色を紹介することは、その流派独自の多彩な学術内容を紹介することに他ならない。ただし本書においては、その医学者の流派における地位と学術上の功績を紹介するにとどめ、その全貌を系統的に紹介することはしていない。

六、外感熱病流派についての評価
 「通俗傷寒派」とは、広義傷寒の研究、つまり外感熱病全体の弁証論治法則の研究を主要テーマとする流派である。したがって研究の範囲が広く、関係する病種も多いので、彼らは『傷寒論』の六経弁証体系を骨幹としつつも、個別疾病の研究を重視するとともに、後世の経験方を集めて『傷寒論』を補充し、独自の診療体系を構築した。これは、きわめて賢明な選択であり、このような思考方法は、外感熱病に携わる伝統的中医学の根幹に通底する考え方であるといえる。そこで若き中医師たちには、これら通俗傷寒派の代表作を通読することを、また一部の作品については精読することをお勧めしたい。たとえば清代の兪根初の『通俗傷寒論』は、内容も豊富であり、実用的でもあり、この流派を代表する重要な著作である。そして通俗傷寒派を学習研究する目的は、外感熱病の診療法則を把握するためだけではなく、さらに重要なことは、『傷寒論』に対する認識を深め、読者自身の弁証論治能力を高めることにある。 
 「経典傷寒派」とは、後世の温病学説を否定し、『傷寒論』をかたくなに守り、経典方を実効性があるとして推奨した流派である。しかしこの流派の著作を読む場合には、その歴史的背景を考慮に入れておかなければならない。清代末期、世の中には温病学説が流行し、『温病条弁』や『温熱経緯』などの著作が当時の中医学入門のための必読書とされていた時代である。ところが『傷寒論』と温病学説とでは理論上の違いがあるために、一部の医者たちからは、『傷寒論』が時代遅れの書であるとみなされていた。もちろん、このような傾向が中医学の発展に悪影響を及ぼすことはいうまでもない。そこでこのような状況を打開しようとした陸九芝たちは、その著作の中で『傷寒論』を学習するように強く提唱し、『傷寒論』の弁証体系が外感熱病に十分に有効であり、臨床において実績を残している点を強調した。
 その後、西洋医学の伝入にともない、中医と西医の間での論争の開始を契機に、中医学界は過去を反省し、中医学の科学化をスローガンとして掲げるようになった。その彼らの見方が、温病学説のなかには非科学的な部分が多いというものである。
 このような流れの中で、_鉄樵・陸淵雷・祝味菊たちは温病学説のなかの問題を極力あばき出し、それによって中医学の改革を推進しようとしたのである。したがって経典傷寒派の著作を読むときには、その臨床経験を吸収するのはよいが、その思想にはむしろ距離をおいたほうが賢明である。このことは、温病学説を正確に認識するためにも、また『傷寒論』の科学性を理解するためにも重要である。経典傷寒派の数多い著作の中でも、私が精読をお勧めするのは、祝味菊の『傷寒質難』である。
 通俗傷寒派と経典傷寒派は、ともに『傷寒論』を基本理論として仰ぎ、六経弁証が外感熱病に対して有効であることを強調する点では共通している。ただし温病学説に対処するときの態度には、前者が寛容で温病学説を臨床において消化吸収し、六経体系の中に取り込んでいるのに対して、後者は誤りであるとして否定し、排斥する態度を示すという違いがある。また前者の著作の多くが臨床実践に着目し、受け入れやすい、つまり「通俗」であるのに対して、後者は理論に重きを置き、かたくなに『傷寒論』、つまり経典を守っている。
 温疫派、温熱派、および伏気温熱派とは、一貫して温熱病を研究対象としてきた流派である。いわゆる温熱病とは、その多くが西洋医学でいう急性伝染病や感染性疾患であり、全身症状が強く、特異な発病経過を有し、生体に対し重篤な損傷を与える疾患である。温熱病は種類が多いために、どの温熱病を対象とするかによって、いくつかの流派に分かれてきた。
 「温疫派」は、急性あるいは爆発性伝染病の治療を得意としており、温疫の病因が特異であると主張している。治療においては、基本病機の把握を重視し、白虎湯、承気湯、黄連解毒湯など、清熱・瀉下・解毒の薬剤を一貫して用い、その量もしばしば常識の範囲を超えている。しかし、彼らの実践経験は、現代の臨床においてもその正当性が実証されており、たとえば一九五〇年代、石家荘地区の中医が大剤の白虎湯で流行性B型脳炎を治療して著効を得、その経験は全国に広められた。また一九八〇年代には、南京中医学院の科学研究班が桃核承気湯を主体とする中薬製剤で流行性出血熱を治療して、治療期間を短縮し死亡率を低下させられることを実証した。このほかにも、黄連解毒湯・承気湯・白虎湯が急性伝染病および感染症に有効であるとする症例が、数多く報告されている。この結果をもとに、多くの温病研究家が、温病学説とその経験を研究し活用するよう提唱している。
 温疫派に比べ、「温熱派」の理論はより系統的である。衛気営血弁証・三焦弁証は、この流派が規範とする診療体系であり、彼らは舌診を重視する。また治療においては先後緩急を重視し、臓腑気血表裏深浅を診断して治療法を選択する。そして透熱転気・清営涼血・養陰生津・芳香開竅・化湿通陽などの治療法を提起し、温疫派の治療を補っている。とくに温病で治療過誤などにより危険な状況に陥ったり合併症を併発したような症例に対しては、温熱派は豊富な経験を有している。温熱派が常用する犀角・地黄・赤薬・牡丹皮・丹参・紫草などには、それぞれ程度の差はあるが、強心・解熱・抗DICなどの薬理作用があることが現在確認されている。また芳香開竅作用のある安宮牛黄丸を動物実験した結果、鎮静・鎮痙・解熱・消炎・蘇生・保肝作用があるだけでなく、多くの実験結果が、安宮牛黄丸には細菌性毒素による脳損傷に対し、脳細胞を保護する作用があることを物語っている。
 今日、中国高等中医院校で使用されている『温病学』という教科書は、温熱派の学説を中心に構成されている。ただしここで注意しておかなければならないのは、温熱派の諸氏がその著述中で衛気営血・三焦弁証などの新学説を強調し、『傷寒論』にない新しい療法や温熱派のいう「軽霊」な方剤を提唱するのをうのみにし、初心者が『傷寒論』の学習をおろそかにしたり、清熱瀉下解毒など、温病の基本的な治療を粗略にしてはならないということである。また温熱学説は温疫学説と同様に、一部の温熱病の一般的病変法則を表現しているにすぎず、その応用範囲は限られていることを、読者は正しく認識しておかなければならない。
 「伏気温熱派」は、温熱派の別派あるいは分派と考えることができる。したがって柳宝詒の温熱論は、葉天士と同じではない。葉天士が提唱した新感温病は、病勢が表から裏へ、すなわち衛から気へ、営から血へと進むのに対し、柳宝詒が提唱した伏気温熱では、病勢は裏から表へ、つまり三陰から三陽へと外達する。そして葉氏の弁証が衛気営血から逸脱することがないのに対し、柳氏の弁証は六経から逸脱することはない。したがって両者の間には、明らかな学術上の違いがみられる。では『温熱逢源』の説く伏気温熱病とは、いったい現代の何という伝染病に当たるのであろうか? それをここで断言することは難しいが、それが何であろうと、柳氏の学説の存在意義をおとしめるものではない。なぜならば柳氏の温熱病に対処するときの考え方は、ただ単に病因の特異性を追求するのではなく、『傷寒論』から出発し、体質の虚実に着目しているからである。そして虚しているものには補托し、病勢を三陰から三陽に外達させて虚を実に転化させる。そしてその後に初めて、清熱や攻下を行うのである。このような治療法は、病邪の力量と生体の抵抗力とを比較した上で考えられたものであり、終始一貫して攻撃療法を施す温疫学説よりも、弁証論治の色彩の濃いものとなっている。したがって『温熱逢源』を読むということは、柳氏のこのような思考方法を吸収するということであり、このような法則や方薬の使い方は、温病だけでなく、普通の感冒による発熱や慢性病にも使うことができる。たとえば老人や虚弱体質の人の感冒・微熱・関節痛・心臓病などにも、柳氏の助隠托邪法は適している。
 周知のように、中華民族の歴史のなかで、伝染病は一貫して民族の存続にとっての脅威であり、数え切れないほどの「温疫」の大流行は、当時の社会、政治、経済に莫大な被害を与えた。そのため歴代のあらゆる医学者たちがこの大災害を撲滅しようと努力したが、中医学は伝染病と感染症の原因である細菌、ウィルスおよび寄生虫の存在をついに発見することができなかった。そのために、現代医学のような予防医学大系を築くことはできなかったが、幸いなことに、中医学は弁証論治という思考法と豊富な実践経験により、治療の主体を患者自身に転嫁させるという方法を編み出した。すなわち患者自身の抵抗力を高め、生体内の環境を整えることによって、死亡率を低下させ、民族の繁栄に少なからず貢献したのである。またこのような中医学の特性は、今後も人類と各種伝染病や感染症との戦いにおいて、大いに貢献するに違いない。
 振り返ってみれば、この数十年というものは、現代医学の普及に伴い、中西医結合による伝染病や感染症の治療が主流となり、抗生物質や全身支持療法の応用も不可欠である。しかしそのうえに中医の弁証論治が加われば、治療効果をさらに高めることは間違いのない事実であり、そのような症例も国内で多く報道されている。もちろん中医の伝統的投薬手順や薬物の剤型にも改革は必要であり、近年、伝統方剤から製成された安全で有効な注射剤や点滴が、相次いで登場している。たとえば安宮牛黄丸から製成された注射液、「醒脳静」は、高熱・中枢神経感染症による混迷・肺性脳症・急性脳血管疾患などに対して有効であることが証明されている。また生脈散をもとに開発された生脈注射液は、中毒性ショック・心原性ショックに有効である。一九八〇年代以降、中医学界は再び急性疾患の研究に取り組み始め、多くの中医急性症研究機構や雑誌、学会などが出現し、中医学校でも急性症に関する講座やカリキュラムが開設されている。このように、現代医学の理論と技術を導入することにより、伝統的中医学の研究を続けていけば、必ずや新たな中医学流派が生まれるであろう。

七、内傷雑病流派に対する評価
 内傷雑病とは、慢性疾患に対する伝統的な呼称である。それはまた単に内傷、あるいは雑病とだけ呼ばれることもあるが、それぞれが意味する内容はやや趣を異にしている。たとえば内傷という呼び名は、慢性病が臓腑気血の虚損と機能失調を主な病理変化としている点を強く示唆するのに対して、雑病という名称は、慢性病の臨床症状が複雑で、病因や経過がわかりにくく、虚実寒熱表裏が判断しにくい点を強調している。伝統的に内傷雑病を研究した流派には、おもに易水内傷派・丹渓雑病派・弁証傷寒派と経典雑病派がある。中医伝統内傷雑病学は、これら四大流派の学説によって構成されている。
 「易水内傷派」の起源は、金元時代の易水という河川の周辺に起こった「易州張氏学」にさかのぼる。その後この流派は、李東垣・薛立斎・趙献可・張景岳などの医学者たちの出現によって発展し、明代にはすでに成熟期に達していた。そしてその学術が中医伝統内傷雑病学の主流となっていったのである。
 では、彼らの学術内容をみていこう。この流派では、臓腑気血の虚損という病理変化が強調され、臨床においては補益法を得意とした。そしてなかでも特に彼らが温補脾腎法を得意としたことから、後世「温補派」「補土派」と呼ばれるようになった。また、彼らは『黄帝内経』の蔵象学説にもとづいて病理変化を解釈し、処方にあたったので、この流派を代表する人物はみな五行学説や陰陽学説を理論的根拠とした。
 このような彼らの傾向は、臨床経験を総括し、病理現象を解釈し、新方を創り出すには便利であったが、この哲学理論によって医学理論に取って代わらせることは科学原則に反するものであり、その結果医学実践の深化を妨げ、同時に初心者の入門を困難にした。したがって内傷雑病派のさまざまな著作を読むときには、五行生克・昇降浮沈・引経報使・陰陽水火などの学説に惑わされず、学習の重点を臨床経験に置くべきである。なぜならば内傷雑病派には、虚損性疾病についての豊富な経験があるからである。たとえば張元素・李東垣の養胃気・昇脾陽などの治療法や、補中益気湯・清暑益気湯・半夏白朮天麻湯・薛立斎の帰脾湯・補中益気湯・六君子湯・十全大補湯の応用経験、趙献可の六味丸・八味丸などの応用経験、張景岳の治形_精法や左帰丸・右帰丸などは、いずれも高い臨床効果を示している。しかし内傷雑病は種類が多く、病理変化も虚実が併存したり内傷と外感が錯綜したりと複雑であるので、ただ単に「虚」とか「内傷」とかいう側面だけで疾病をみるのは、明らかに一面的である。したがって初心者の入門書としては、この流派の著作は不適切であるといわざるをえない。
 「丹渓雑病派」の起源は、元から明への転換期にさかのぼる。この流派を代表する人物には、朱丹渓とその弟子たちがいる。彼らが雑病の治療を得意としていたことから、この名称が付けられた。丹渓雑病派は、易水内傷派に比べれば、補益だけにはこだわらず、生体内の気血津液のバランスの調整に着目し、痰や_血などの病理産物の除去を重視した。たとえば長期化した疾患や難病を目の前にした場合、ほかの易水内傷派の奥義が補脾・補腎であるのに対し、丹渓雑病派の奥義は、治痰・治_である。彼らのこのような学説と経験は、実際的で臨床に即しており、道教的要素が少ないので、初心者にとってもとっつきやすいものとなっている。ただし、丹渓雑病派が易水内傷派よりは新味を打ち出しているとはいえ、結局はこの一派の見解にすぎない、張仲景医学と同列に論じることはできない。その意味では、金元医学を学習する前に、『傷寒論』『金匱要略』という基礎を学習しておくことが必要である。
 「弁証傷寒派」が形成されたのは、清代である。彼らの主張によれば、『傷寒論』理論とその薬剤の使用方法は、外感病に用いられるだけでなく、内傷雑病にも用いることができるという。そしてその根拠となっているのが、『傷寒論』が本来は傷寒と雑病の両方を論じた書であるという説であり、それを根拠に彼らは弁証論治の「応用法」を人々に示した。その内容は、以下の通りである。
 六経弁証に含まれる表裏寒熱虚実陰陽という八綱は、生体反応をまとめ極限まで簡略化したものである。また方証とは、証を具体的かつ客観的に分類した基本単位であり、方証こそが『傷寒論』の基本精神である。そして、『傷寒論』方を内傷雑病に使うことは、その理論の合理性を証明することになるというのである。弁証傷寒派のこのような学説は、金元医学に比べれば厳密であり、正確な思考法を人々に提示し、いかに弁証論治するかを教える役割を果たした。したがって弁証傷寒派の学説は、初心者が入門するために非常に適しているといえよう。もちろん実際には、内傷雑病の臨床に、『傷寒論』の百あまりの処方では十分ではなく、易水内傷派や丹渓雑病派の経験方など、後世の経験方を取り入れる必要がある。したがって弁証傷寒派の著作を読む目的は、『傷寒論』の学術的価値を認識し、弁証論治の基本知識と技術を把握し、『傷寒論』にある主要方剤の方証とその応用方法を十分に理解することにある。
 「経典雑病派」とは、漢唐医学を根幹とする学術体系である。その内容は豊富かつ系統的であり、中医伝統内傷雑病学の正統派である。この流派が成立したのは清代であり、濃厚な復古主義と反金元明医学主義とに彩られている。彼らは弁病することを主張し、各疾病ごとの専用処方と専用薬剤を設けるよう提案しており、弁病の前提としての弁証を行った。また彼らは方剤と薬物の研究、総合療法を提唱しており、彼らの学術には経験主義、実証主義という特徴がある。経典雑病派と弁証傷寒派とでは、ともに古医学を推奨しているという点では共通しているが、その学術の起源を比べれば、前者が『金匱要略』と『千金方』をもとにしているのに対し、後者は『傷寒論』をもとにしている。また学術内容についていえば、前者が弁病に傾いているのに対して、後者は六経弁証と方証を重視している。したがって前者は経験主義の色彩が濃いのに対して、後者は理論的色彩が濃い。だがいずれにしろ、この二大流派はともに中医学を構成する重要な一部であり、代表する人物の著作は是非とも通読するべきであり、またいくつかの書籍については手元に常備し、時々参考にする価値も十分あると思われる。
 以上四大流派の学術思想と臨床技術は、後世さまざまな発展を見せた。たとえば王清任の活血化_法や葉天士の養胃陰法などは、その顕著な例である。現代の名老中医の多くも、これら流派の経験を継承し、臨床に活用しているし、幾多の名医たちが才能を開花させてきた経緯をみると、多くの流派の経験を吸収することが必要であることがわかる。中国において高等中医教育が発足して以来、現代中医学は、伝統的中医学の体系化、規範化を追求し、多くの理論的かつ実用的な中医内科学教科書や著作を出版してきた。ただし、全体的にみれば、易水内傷派と丹渓雑病派の学説がしめる比重が大きく、弁証傷寒派と経典雑病派の学説がしめる割合は不足している。また経験方の紹介は多いが、『傷寒論』の弁証論治技術に対する訓練は十分ではない。そしてこのような現状が新時代の臨床家の育成を妨げていることは明らかである。そこで筆者が主張したいのは、弁証傷寒派と経典雑病派の代表作を精選し、若き中医師たちのための参考資料を制作するとともに、これら流派の学術を研究し活用しなければならないということである。

八、民間医学派に対する評価
 民間医学とは、民間に流布した大衆的な自己保健法であり、教科書に載ることもなく、経典理論によって解釈されたり、そのなかに取り込まれることもなかった。この民間に流布された民間医学を正統な教科書とを比べてみると、内容が豊富で通俗的であり、変化に富むので、人々からは特殊な療法とみなされてきた。民間医学には、つぎのような特徴がみられる。
・非論理的である。伝統的中医理論はいうに及ばず、現代医学理論でも、民間医学の効能を的確に解釈することはできない。
・技術が通俗的である。材料は現地で調達し、手技が簡単であり、その地の生活と自然に根ざしている。
・効果が一定しない。治療効果に再現性がなく、取扱者や施術者の経験によって異なってくる。そのほかにも効果に影響を与える要素は数多くある。たとえば内服薬についていえば、薬物の品種・産地・採集時期・加工法・製作法・剤量・服用法、そして患者の個体差などである。
・口伝によって伝播された。経験に裏打ちされたこれらの技術は、文字によって正確に表現されることもなく、規格化されることもなかった。したがってこの医学の伝播は、伝統的な師伝や家伝によるものが多く、個人的な実践体験が口伝えや身をもって伝えられたものである。
 中国の民間医学の源流は、はるか古代にさかのぼることができる。『内経』『傷寒論』『金匱要略』『肘後備急方』『千金方』『外台秘要』などの古代医学書にも、かなり多くの民間療法や経験方が記載されており、それら民間医学の精華は、中医学に欠かせない重要な部分を構成している。歴史的にみても、多くの医学者たちが民間医療を学習、採用して、名をなしている。たとえば金元四大家の一人、張子和は、民間医療をまとめて運用した医学者として知られているが、有名な彼の攻邪論と汗吐下三法は、民間医学の理論と治療法から創り上げたものである。また清代の外治法専門家、呉師機は、膏薬などの外治法によって内外の疾患を治療したが、その著書である『理_駢文』は、古今の外治法を集大成したものであり、今日に至るまで影響力を行使している。歴史上、民間療法の大部分を担ってきたのは鈴医であり、彼らは笈を背負って各地を周遊し、医療を施した民間の医学者である。
 長い間、民間医学の学説は、正統な中医学界からは無視され続けてきた。鈴医たちは浮浪の徒かなにかのようにみなされ、その医療経験は一顧だにされなかった。しかしこのような偏狭な見方は、中医学の発展を阻害するものである。民間医学もまた伝統的中医学の重要な一部であり、人民大衆の健康を守るという意味では、正統医学には真似できない功績をあげている。また時代の流れにつれ、民間医学にも変化が現れ、保健、予防へとその目標を転換していった。さらには管理面での規格化や法制化を進め、運用時の安全性と科学性を重視するようになり、市場経済化が促進されつつある現在、民間医学の開発と利用が注目されている。このような昨今、医学に従事するものは、民間医学の医療経験を発掘、研究し、さらに現代科学の手法を利用して発展させなければならない。

九、日本漢方流派に対する評価
 日本漢方とは、日本化した中医学であり、李朱医学を中心とする後世方派にせよ、あるいは『傷寒論』を骨幹とする古方派にせよ、いずれもその流派を代表する人物が中医学の理論と経験を日本の現状に適応させて創り上げた、新しい流派である。そこには、民族、伝統文化の違いから、それぞれの流派によって伝統理論の吸収の仕方や利用方法に違いがみられるが、これはいたって正当なことである。なぜならば、一つの学術観点は一朝一夕にできあがるものではなく、幾多の討論や紆余曲折を経、多くの人々の努力によって成し遂げられるものだからであり、一つの学説や流派を安易に否定することは、科学的態度とはいえない。したがって中医学を研究するためには、日本の古方派や後世方派、また本書では紹介していない折衷派の研究は、欠かすことのできない要素である。現に日本漢方は、かつて中国の近代的『傷寒論』研究や中医学を科学化しようとする思想潮流を大いに促進する役割を果たしており、近代の中医学者、_鉄樵・陸淵雷・章太炎・閻徳潤・葉橘泉や、名中医の岳美中・胡希恕などにも影響を与えている。今後、中日中医学界の学術交流の深化により、中医学に対する理解が深まり、そこから世界に通用する新たな現代中医学の体系が創り出されていくものと確信する。