▼書籍のご案内-序文

中医対薬 ―施今墨の二味配合法―

日本語版序文

 我が模範であり恩師である施今墨先生は,生前に60年あまり医業に携わった。その医術は深く,治療効果は卓越し,旧時,北京四大名医として広く知られていた。
 『施今墨対薬』は『施今墨薬対』ともよばれる。1962年初夏,施先生の高弟である祝諶予教授の指導のもと,「対薬」に対し表の形式で整理を行った。これを施先生に校閲,修正していただき,お墨付きを得たのち,北京中医学院(北京中医薬大学の前身)において,『施今墨臨床常用薬物配伍経験集』という小冊子にまとめた。1963年には,医学雑誌『中医薬研究通訊』にその内容が載録された。その後,20数年の検証を経たのち,臨床経験を取り入れるなど手を加えて『施今墨対薬臨床経験集』を編集し,1982年10月に山西人民衛生出版社より出版した。同書は1982年度の全国優秀科学技術図書1等を獲得している。その10数年後,改訂・増補・再編集を行い,書名を『施今墨対薬』に改め,1996年9月,北京人民軍医出版社より出版した。同書は多くの読者を獲得し,1年あまりの間に3たび増刷を行い,読者の要望に応えた。
 隣国である中日両国の友好的な往来,学術交流は長い歴史を有している。唐代には鑑真が数々の困難を乗り越えて日本へ渡り,医術・仏教を伝えている。年月の推移にともない,こういった交流は日増しに増加している。今回,東洋学術出版社の山本勝曠社長の丁重なる要請を受け,本書『施今墨対薬』の日本語版を発行する運びとなった。中医事業を広く高揚し,人類に長寿・健康・幸福をもたらし,日本の同士および中医愛好者とのさらなる交流を深めるため,本書がいささかでも寄与できればこれ以上の喜びはない。

呂 景 山
丁丑仲秋 山西中医学院七蝸楼にて




 先輩(施今墨先生)は詳細な弁証にもとづき巧みに中薬を用いた。「臨床は戦いに臨む軍隊の様なものであり、兵隊の如く薬を用いるべきである。弁証を明確に行い薬物を慎重に選択してその効果を活かすことが必要である。医学理論を知らなければ弁証は困難であり,弁証が明確でなければ治療方法は立たず,薬物をただ書き並べただけでは効果は得られない」と言われた。
 古人の治療法は単味薬物から始まったと思われる。いわゆる単方である。その後、薬物を組み合わせて用いることを見出し単味薬物に比較して治療効果が強まることを経験した。その後,七方の分類が生まれるに至った。充分に薬物配伍の効果が経験,蓄積された結果である。
 施今墨先生は処方に常に二薬の組み合わせを用い薬物配合を応用した。配合により協同作用を示すもの、副作用が抑えられるもの、長所を引き立たせるもの、相互作用により特殊な効能を示すものなどがあり、これら全てが対薬と称される。私は施先生の処方から百数十種の対薬を集めて北京中医学院で講義していた。呂景山は当時学生でその後、私の助手になり施今墨先生の臨床に立ち会う機会を得た。その後に研究,整理,注釈を加えて対薬の効用を説明する臨床的に有用な本書を著した。北斉の除之才は『雷公薬対』を基にさらに書き加えて『薬対』を著し薬物配合応用の意味を示したが,呂景山の著作は現代の『薬対』ともいえよう。
 対薬に関する知識を必要とする人は多いので、この本が出版され、広い範囲の医療関係者に役立ててもらえることを嬉しく思う。

祝 諶 予
1981年3月 北京にて


自序

 「対薬」は「薬対」とも呼ばれる。その起源はいつ頃であるか未だ定説はない。歴史唯物主義と弁証唯物主義の観点にもとづいて,漢代以前からすでに多くの経験が蓄積されてきた。『中薬概論』では「薬物は単味から複合へ,そして複合から方剤が形成された。これは発展の過程である」と述べている。文字に記載されたものを見てみると,最初に『内経』の半夏米湯(半夏と米の配伍)の胃不和,睡眠障害に対する治療が見られる。また,後漢張仲景『傷寒雑病論』には統計にもとづけば147対が見られる。後世になり薬対は1つの学問に発展した。それを扱った専門書籍には『雷公薬対』『徐之才雷公薬対』『新広薬対』『施今墨薬対』などがある。
 『雷公薬対』について『漢書・芸文志』に記載は見られない。梁朝『七録』の中の『本経集注』陶弘景序文に「桐(桐君)・雷公に至り初めて著書に記載した。『雷公薬対』4巻では佐使相須を論じた」という記述がある。また,『制薬総訣』の序で陶氏は「その後,雷公・桐君はさらに『本草』の内容を加えた。後の『薬対』では主治が広範囲になり種類も豊富になった」と述べている。しかし,惜しいことにこれらの書籍はすでに失われて,現在見ることのできるのは5対のみである。
 『徐之才雷公薬対』は『新唐志』によると2巻あったがすでに亡失した。北宋・掌禹錫は「『薬対』は北斉時代の尚書令,西陽王であった徐之才が著したもので,多くの薬物を君臣佐使の配伍法,毒性,配合禁忌,適応症に分類して記載したもので2巻ある。これまでの本草はよくこれを引用するが,治療における薬物の用い方が詳細に記されているからである」と述べている。
 『新広薬対』については,宋代『崇文総目輯釈』3巻に『新広薬対』3巻,宋令?撰との記載があるのみである。『宋史・芸文志』には宋令?『広薬対』,『通志・芸文略』には3巻,逸と記載されている。
 元代以降は目録学上,薬対に関係する記載は見あたらない。すなわち薬対に関する専門書はすでに亡逸してしまったと思われる。
 『施今墨薬対』は1958年北京中医学院第一教務長であった祝諶予教授が我々を引率して下京西鉱務局医院で実習を行った際に,詳しく講義した「施氏薬対」100余対を整理して書籍にしたものである。

 1961年卒業実習の際に祝先生は私の指導教官であった。豊富な臨床経験の指導を受け,時には施今墨先生の臨床にも同伴して指導していただいた。先生の指導のもとで薬対は100余増えた。これら2人の先生に校閲をお願いし先に『施今墨臨床常用薬物配伍経験集』をまとめることができた。この本は広く大学生,同学者に受け入れられた。増版を行うほどの反響を受けて翻訳もされ広く読まれるに至った。
 その後,先生の指導のもとで勉学,臨床を積み重ね,理論との結合をさらに実践した。経験蓄積と資料収集を重ねて1978年に『施氏薬対』を執筆した。祝諶予,李介鳴両先生の校閲,指摘を得て『施今墨対薬臨床経験集』に改名して世に問うた。この本も広く多数の読者,専門家,教授からお褒めの言葉を受けることができた。
 中医の大先輩である葉橘泉教授は『施今墨対薬臨床経験集』は興味深い実用意義のある学習資料であり,中薬と方剤学の橋渡しになる」と述べた。周風梧教授は「北斉代にすでに徐之才の記した『薬対』があったが,惜しいかな紛失してしまった。呂景山先生は施先生および諸先輩の経験を整理してこの書物を著した。本書は南北朝から現在に至るまでの千四百多年に渡る薬物配合に関する知識経験伝達の空白を埋めるとともに,今後の発展を促す意味で臨床において極めて重要な指導書である。祖国の豊富な伝統医学に1つの意義のある貢献をするものである」と述べた。李維賢教授は「薬対」は新興学科であり薬対学と称するべきであると考えている。李教授は「薬対学は薬物学と同じではない。薬対は簡単な配合のみで薬方(方剤)とも異なる。薬対学には方剤学のような配合の完全性はない。薬物学から方剤学を学んだのみでは,方剤学を離れてよい処方をなすことはできない」と述べている。葉廷珖教授は「本書は施先生の薬対配合を集めて詳しく解説したもので,その数も多く分類も詳細になされて調べるにも便利である。薬物単味の効用,配合による効能および臨床応用まで記載されて,系統的かつ科学性を持ち合わせている」と述べている。唐代・孫思の『千金方』には「大医になるには素問,甲乙,黄帝針経……本草,薬対および張仲景,王叔和の著書を熟読しなければならない」という記載も見られる。
 本書が世に問われて10余年になる。その間多くの読者に受け入れられ,専門家および政府からお褒めの言葉を受けることができた。1982年全国優秀科学技術書一等賞,1983年山西省科学技術成果二等賞を受けた。また,中華人民共和国建国35周年に中国革命博物館の重大なる成果の陳列に加えられた。

 各界人の言葉に答え,中国医薬学の発展を継承するため筆者はさらに改定を加えてここに『施今墨対薬』を編纂した。
 本書の編集,改定の過程で多くの人から支持と協力を得た。とくに祝諶予先生,李介鳴先生には多くの指摘,指導を受けた。ここに深く感謝の意を示したい。

呂 景 山
1995年10月 太原にて


施今墨先生の紹介

 施今墨先生は1881年3月28日生まれで,出身は浙江蕭山県,1969年8月22日に亡くなった。元の名は施毓黔,医者になった後に改名して施今墨となった。
 施今墨先生は母が病気がちであったために幼年期にすでに医学を志し,伯父で河南省安陽の名医であった李可亭先生から中医学を学んだ。
 父が山西で仕事をしていたので1902年に山西大学に入学した。1903年に山西法政学堂,1906年には北京京師法政学堂に転入した。学校では法律を学びながら中医学も学習した。1911年に京師法政学堂を卒業した。
 1913年山西に戻り医者として臨床に携わった。医業を自分の一生の職業と決心して1921年に再び北京に戻り,臨床に専念し医術の研鑽を積み重ねた。その後,施今墨先生の名は全国に知れ渡るものとなり北京四大名医の一人に数えられるまでになった。近代の著明な中医学者となったのである。
 施今墨先生は臨床に携わるとともに,中医教育の改革にも携わった。1932年には私財で北平に華北国医学院を設立し院長に就任した。医学院では中医基礎および臨床過程のほかに,西洋医学の解剖・生理・病理・細菌学・内科・外科・日本語・ドイツ語などの過程を設けた。これは当時の医学界にとって画期的なことであった。施今墨先生は自ら教壇に立ち,学生実習を指導した。医学院設立10余年の間に600~700人の学生を育成し,数10年にわたって学外においても多くの中医学の人材を輩出した。そのほかに,先生は1931年中央国医館副館長を任せられ,1941年には上海復興中医専科学校の理事長,あわせて北京・上海・山西・ハルピンなどの中医学院設立にも協力した。講義・研究などを通じて多くの中医学の後継者を育成し,その貢献には突出したものが見られる。
 解放後,農工民主党に入党し,中国人民政治協商会議の第2~4回全国委員会委員に選出された。また,中華医学会副会長・中医研究院学術委員会委員・北京医院中医顧問などを歴任した。
 施今墨先生は学術的に中西医結合を提唱し,30年代すでに「中医学を進歩させるには西洋医学の生理・病理学を参考にする以外に道はない」と明確な指摘をしていた。また,中医学の病名を統一すべきであるとも考えていた。20年代の診療に西洋医学の病名を応用して中医弁証との結合を試みた。血圧計・聴診器・体温計などを診断の補助に用いたがこれは当時とすれば珍しいことであった。また,中成薬の創製においてもこれまでの伝統を破り,気管支炎丸,神経衰弱丸など現代医学の名称を採用した。これら成薬は有効性が高く国内外から多くの支持を受けた。
 施今墨先生は祖国伝統医学理論への造詣が深く『内経』『難経』『傷寒』『金匱』『本草』および金・元・明・清代の医家を深く研究し,「傷寒」「金匱」の諸処方を熟知して証に応じた活用を行い,しばしば著明な効果が認められた。先生は中医を温補派と寒涼派などの門派に分けることには反対であった。また,中医と西洋医の区別についても同様であった。すべては治療を受ける病人が主体であり,治療効果を高めるためにそれぞれの医家のすぐれたところを融合し自己の経験を交えて己の見解,新しい考え方を提示した。学術面では先生は独特の見解をもち,「気・血は身体の物質的基礎であり,実が重要である。それゆえ弁証では,陰陽を総綱とし,表・裏・虚・実・寒・熱・気・血を八綱とする」と認識していた。これは祖国医学基礎理論の八綱弁証における新たな発展であり,祖国の医療業務に対する突出した貢献であった。1981年には中華全国中医学会および農工民主党が施今墨先生の生誕100周年記念会を行い,生前に成した偉業を高く評価した。