▼書籍のご案内-序文

症例から学ぶ中医弁証論治

日本の読者諸氏へ

 このたび,拙著『症例から学ぶ中医弁証論治』が生島忍氏の翻訳により,日本の読者諸氏に読まれるはこびとなった。このことは中日両国の文化交流・友好関係を積極的に推進するものと信じる。この機会を借りて生島忍氏そして東洋学術出版社に対し,心からの感謝の意を表したい。以下日本の読者諸氏に私の考えをいくつか述べる。本書を読まれる際の参考にされたい。
 医聖・張仲景先師は『内経』,『難経』その他の医学理論を「勤めて古訓を求め,博く衆方を采る」とともに,自己の臨床経験に照らし合わせて,「弁証論治」なるものを提起した。この「弁証論治」とは一種の医学的思考方法であり,また一種の有効な治療体系でもある。さらに仲景自身の特徴と規則性を具備し,まさに中医学における精華である。弁証論治がうまく運用されてはじめて治療効果が高められ 疾病治療が行える。これに反して,弁証論治の法則を無視すれば,あたかも大工が準縄をなくしたごとくで,患者の病を治療することはできず,起死回生という神聖な職責をまっとうすることができない。
 独学で中医学を学ばれている方々に申し上げたいのは,中医の基礎理論を学習された後は,さらに進んで弁証論治のやり方を学ばれたい,ということである。もっとも,基礎理論が充分に把握できてはじめて,弁証論治がよく理解できるということはいうまでもない。なぜならば,弁証論治と中医理論は密接に関連しており,どこからどこまでがどっちと分けることができないからである。もしも中医理論の学習のみを重視して,弁証論治の学習がおろそかになると,中医理論の臨床における実際的かつ正確な運用はおぼつかなく,結果として治療効果は向上しない。またもし弁証論治の学習のみに努力が払われ,中医理論がおろそかにされると,今度は弁証論治の奥行が深くならず,正確な弁証論治はできず,さらには臨機応変な弁証論治の運用に支障をきたすようになる。よって弁証論治と中医理論は,表面上は2つのものであるが,根源は1つの関係にある。
 本書第7章の「弁証論治学習上の問題点」は,弁証論治の初学者に対して,どのようにしてこれを学習していけばよいのかについて,筆者なりの見解を示したものである。言い換えれば,弁証論治の入門章といえる。この章を学ばれた後,もう一度第1章から読み直していただければ,弁証論治の実際的運用がさらによく理解されよう。全体として本書は弁証論治の入門書という目的に沿って書かれてある。
 日本の漢方学習者から,「弁証論治と方証相対とはどう違うのか」との質問を受けたことがある。筆者は,両者は基本的には同一のものであると考える。いわゆる方証相対という考え方は,現代中医学にはない。また『傷寒雑病論』のなかにも出てこない。しかし後世の人びとは,学習と暗記に便利なように,某某湯(方)は某某証を主治するとか,某某証は某某湯(方)が主治する,といった方法が採られたため,「方証相対」という方法が次第に形成されていったと考えられる。それで,これも実際は「弁証論治」の範疇に属すものと考えられる。なぜなら,「証」というからには弁別・認識という思考過程を必要とするからである。桂枝湯を例にとってしめす。
 「太陽の中風,陽浮にして陰弱。陽浮は熱自ら発し,陰弱は汗自ら出づ。嗇嗇として悪寒し,淅淅として悪風し,鼻鳴乾嘔する者は,桂枝湯之を主る」とあるが,ここで述べられている桂枝湯の「方証」とは,仲景先師が「弁太陽病脈証併治」という診断基準にもとづいて,弁別・提起した証候とその治療法のことである。仲景先師が『傷寒雑病論』で「弁証論治」という臨床思考方法を唱えて以来,歴代の医家たちはこの方法を自分たちの臨床経験および医学理論に結びつけてきたため,弁証論治の内容は次第に豊富となり完成されたものとなった。中医学の精華である。
 いわゆる「相対」とは,機械的固定的な関係をいうのではない。例えば桂枝湯の方証中にはさらに,「桂枝は本(もと)解肌と為す。若し其の人脈浮緊に,発熱して汗出でざる者は,与う可からざるなり。常に須らく此を識り,誤らしむる事勿かるべきなり」とか,「若し酒客の病,桂枝湯与う可からず」などがある。これらから解るように,1つの薬方は1つの病証を治療するが,時・地・人などの要因によって薬方の使用は制限を受け,具体的な病情にもとづいて弁証論治を行ってはじめて,方と証とが相い応じて疾病が治療できると,仲景先師はすでに述べているのである。もし方と証とを機械的に絶対固定的なものとしてしまうと,人の命を危うくし,また壊病をつくる原因ともなる。

 清代の医家呉儀洛は,その著書『成方切用』の序文の中で,「仲景の時代から今日に到るまで,治病においては病機を審(しら)ペて病態の変化を察知せねばならないということに変わりはない。……病には標本・先後の違いがあり,治療においても緩急・順逆の相違がある。医の大事な点は,病態の変化をいちはやく察知して適当な薬を処方することである。かりそめにも1つの処方に固執して数知れない変化に対応しようとすれば,実証を実して虚証を虚し,不足を損ない有余を益することになり,病人を死に至らしめる結果となる」と言っている。
 私の個人的な見解を述べさせてもらうなら,中医学の学習研鑽には,いわゆる「方証相対」の方法を用いてもよい。この方法を用いると暗記やまとめに便利であるばかりか,学習や研究の助けともなる。しかし実地臨床においては,必ず「弁証論治」の法則を指導原則として,臨機応変にこれを活用していくことが肝要である。まさに古人の言う「薬を用いるは兵を用いるが如く」,あるいは孫子の言う「戦争にはきまった情況というものはない」という言葉で表現されるように,疾病治療には画一的で固定した処方などというものはない。そのため医者たる者は,『素間』『霊枢』を深く究め,医理に精通してはじめて,複雑に変化する病態がよく把握でき,理・法・方・薬の選択も適切となる。
 人類の疾病は宇宙間の万事万物と同様,それぞれに特徴があり,また非常に複雑でかつとどまることなく変化して行く。弁証論治の方法を用いることによって,疾病の認識と治療は行えるのであるが,人の居住場所・風俗習慣・体質などはそれぞれ異なり,また体質にもとづく病性の変化,風雨寒暑の影響などの違いも考慮に入れねばならない。そのため弁証論治を行う際には,「同じものの中に異なったものがある」とか「異なったものの中に同じものがある」といった情況もあり得るから,必ず詳細に弁別して混乱しないよう務めなければならない。
 弁証論治の運用面について言えば,歴代医家達の学術観点や学派の違いなどから,非常に多くのまたさまざまな経験が蓄積されている。それゆえ,弁証論治といっても,一種の絶対的画一的で融通性のないもの,とみなしてはならない。
 疾病は複雑で変化し易いが,しかし認識して規則性を求めることは可能である。弁証論治とは中医理論を指導原理として,陰・陽・寒・熱・虚・実・表・裏・真・仮・合・併・営・衛・気・血・臓・腑・経・絡などの各種病証について弁別してゆくものである。それゆえ弁証論治とはかなり厳格で規範性をもつものではあるが,臨床的によく見られる陰中に陽あり,陽中に陰あり,陰陽転化,寒熱錯雑,虚実兼挟,伝変従化,同中有異,異中有同,風寒暑湿,気至遅早,老幼壮弱などの複雑な状況をも注意して混乱なく弁別しなければならない。このように弁証論治もまた,人・時・地の制限を受けるから,融通性をもたせて活用すべきである。この辺のことが理解されれば,仲景先師の「思い半ばに過ぎん」の境地である。

 まとめると,弁証論治は中医学の精華であり,臨床的には疾病治療に有効な医療技術である。人類の知識は絶え間なく蓄積され,科学や医学理論も日増しに進歩しているのにしたがい,弁証論治の水準も次第に高まってきている。特に近代以来は,西洋医学の長所や科学技術もとり入れるようになった。それゆえ,弁証論治もとどまることなく進歩・充実・向上している。そして多くの医家たちによって実践され,補充・発展しており,人類の健康・長寿に貢献している。
 最後に,生島忍氏はじめ各位に対し,もう一度感謝を申し上げたい。
 浅学非才の筆者ゆえ,書中に欠点や誤りもあろうかと思う。読者諸氏の御批判・御教示をお願いする次第である。

焦 樹 徳
1988年12月 北京にて