▼書籍のご案内-序文

中医学の基礎

まえがき

 日中の国交回復以来,伝統医学の分野でも交流が盛んになり,中国での伝統医学の在り方と中医学の活発な現況が知られるようになるにつれて,日本の医療従事者の間にも,中医学を学ぼうという機運が高まってすでに久しい。中医学は独自の体系をもっており,系統的に中医学体系を理解するためには,学習の入り口である中医基礎理論の習得が不可欠である。しかしながら,日本で中医学を学ぼうとする者にとって,系統的な教育を受ける機会は極めて少なく,その習得は各自の独習にゆだねられているのが現状である。このため,初心者にとってわかりやすく効率的に学べる基礎理論の学習書が強く求められている。
 1991年に東洋学術出版社から刊行された『針灸学』[基礎篇]は中医針灸学を学ぶ者が,基礎理論を学ぶ入門書として企画されたが,編集方針の上でも編集作業の進め方の上でも画期的な書であった。すなわち,日中両国で中医学・針灸学を教える立場にある編集スタッフにより,日本の初学者のために学ぶべき項目と順序が吟味され,日本側の要望にもとづいて,天津中医学院の教員スタッフが草稿を作成し,両者で検討を重ねた上で,東京衛生学園中医学研究室のスタッフにより翻訳され,最終的に兵頭明氏の監修により脱稿された。このようにすぐれた企画のもとに,ていねいに編集が進められた同書は,きわめて時宜を得た出版物として,広く針灸界に受け容れられ,版を重ねていると聞く。
 『針灸学』[基礎篇]の内容がすぐれており,入門者の学習に適していることに鑑み,筆者は針灸学を学ぶ者ばかりでなく,漢方薬を用いる湯液治療家にとっても基礎理論の教科書としてふさわしいものと推薦してきた。しかし,湯液治療にとって重要な外感熱病弁証の記述が不足しているなど,物足りない部分があるのは仕方のないことであった。
 『針灸学』[基礎篇]が高い評価と広範な支持を得たことにより,同書をもとにして,中医学基礎理論の書を再編集しようとする企画が持ち上がったのは,時代の要求に答える必然ともいえることであった。当初,その再編集の作業は,部分的な手直しをすれば事足りるとも考えられたのだが,再結集した編集スタッフの間では,折角新たに出版するのであれば,内容を全面的に見直し,さらにわかりやすさと読みやすさを追求した,より理想的な基礎理論書に仕立て上げようという欲張った方針が,一致した意見として採用された。
 『針灸学』[基礎篇]の編集スタッフのうち,日中それぞれの代表であった兵頭明氏と劉公望氏に加えて筆者と路京華氏が監修者として新たに参加することとなった。筆者は漢方治療を専門とする臨床家である。漢方医学を学んだ後,中医学を独習し,後に北京の中医研究院広安門医院に留学した。基礎理論は,主として中国の統一教材で自習したが,留学中に臨床研修のかたわら,中医研究院の冉先徳氏(四川の老中医,冉雪峰氏の子息)に統一教材の『中医基礎理論』を教材として,一対一の贅沢な講習を受けた。筆者の質問を冉氏に答えていただくという形で講習を進めたので,長年の疑念をいくつも解決できるなど,筆者にとっては有意義な学習体験であった。また,路京華氏は,高名な北京の老中医,路志正氏(筆者の留学中の恩師でもある)の子息であり,現在日本で中医学の普及と教育を主な仕事としている。路氏に監修をお願いしたのは,中医師としての路氏の特異な経歴による。文化大革命の教育破壊の被害世代に当たる路氏は,中医学院での教育を受けることなく,尊父路志正老中医に学んで中医師となり,文化大革命の終焉後,再整備された中医研究院の大学院に進み,最高峰の臨床中医学を学んでいる。すなわち,中医学院の統一教材を金科玉条とすることなく,『易経』や『黄帝内経』などの古典にもとづく基礎理論を身につけている。『針灸学』[基礎篇]の内容に満足することなく,厳しい視点で見直し作業を進める上で,路氏が大きな戦力となってくれた。
 編集作業は,兵頭氏・路氏・筆者があらかじめ原書の『針灸学』[基礎篇]の内容の問題点を吟味し,三者が集まって持ち寄った問題点を検討するという形で進められた。できるだけ早く基礎理論の学習を終えられるようにわかりやすい内容を追求するとともに,正確な内容になるよう心掛けた。原書は日本の初学者向けに大きな配慮が払われてはいるが,当然中国の統一教材を骨格としている。初学者向けの説明として,現代医学の知見を援用してあいまいな表現になったり,理論の整合性を追求するあまり『黄帝内経』などの記載と矛盾する無理な解説が施されるような部分も見られる。不正確で過剰な説明を削ぎ落とし,簡潔な表現に改める作業が主となったため,全体には贅肉を削る内容となった。また,全面的に書き改めたり新たに書き加える部分も三者で検討して,こちらの要望にもとづいて中国側に出稿してもらうか,兵頭氏があるいは筆者が執筆するかを判断した。中国からの新たな原稿は,兵頭氏が翻訳に当たった。
 時には劉公望氏の参加も得て,日本側の編集姿勢を理解していただき,このような検討会を10回重ね,ようやく全面的に見直すことができた。問題点ひとつの解決に,3人で多数の書を調べながら討論しても,結論を出せずに次回への宿題に残したことも少なくなく,路氏の指摘する問題点が,統一教材の常識にまみれた筆者の頭では理解できず,路氏の根気のよい説明でようやく問題が認識されたり,問題点が浮かび上がっても正確でわかりやすい説明に差し替えるのに四苦八苦したり,と作業は必ずしも順調ではなく,毎回毎回ヘトヘトに疲れ切ったことが,今では心地よい思い出としてよみがえってくる。原書に翻訳調の文体が残っていたため,日本文として読みやすくするため,まず出版社のスタッフに文体の全面的な訂正を委ね,最終的には校正段階で兵頭氏と筆者とで読みやすい表現を心掛けて大幅な修正を加えた。
 本書は,このようないきさつで成立した。監修者たちは誠心誠意取り組んだが,さらにわかりやすい書を目指すべきであろうし,まだまだ見直すべき内容も含んでいるだろう。諸賢のご批判を仰ぐ次第である。原書が針灸学の教材として広く受け容れられたように,本書も中医学の初学者や独習者に,中医学の体系を理解する基礎教材として活用していただければこのうえない喜びである。

監修者  平 馬 直 樹