▼書籍のご案内-序文

現代語訳・宋本傷寒論

まえがき

  『傷寒論』は東漢時代の末に、高名な医学家である張仲景によって著された書物である。『黄帝内経・熱論篇』に記載された六経分証の考えに着目し、仲景は六経弁証を核心に据えた、理〔理論〕、法〔治療法則、治療方法〕、方〔処方〕、薬〔用薬〕からなる体系を創りあげた。中医学の理論と実践をみごとに統一し、その模範を示したのが、『傷寒論』である。この偉大な医学経典は、後世の中医方剤学、臨床弁証学、および臨床治療学の発展に大きな貢献を果した。また、中国のみならず、世界の医学薬学史上でも、重要な位置を占める文献である。
 中医薬学を学ぶ者にとって、『傷寒論』は疑いもなく、必読の古典である。それは、古代文献として価値があるというだけでなく、さらに次のような理由があるからだ。
(1)『傷寒論』は極めて系統的に書かれており、学習に便利である。
(2)『傷寒論』が最も実用的であるのは、理論、処方とその薬味、仲景の経験を載せているからで、一つの治療法を会得すれば、それに応じて治療範囲も広がる。
(3)『傷寒論』を学んでおけば、その源流である『内経』や『難経』の理解が深まる。
(4) 唐宋代以降におこった各医学流派の学術思想を学ぶ場合の参考となる。
 これらの理由から、『傷寒論』をしっかり勉強しておけば、学問的にも、また実地臨床の面からも充分な基礎的能力が養われるので、『傷寒論』をおろそかにしてはならない。

 しかしながら、『傷寒論』の学習は、決して容易なことではない。『傷寒論』は宋の成無己によってはじめて注釈されて以来、宋元以降にこれを注解した人の数は、数百人を下らず、その中には、大家名家と呼ばれる人々も数多い。『傷寒論』の勉強に注釈本を用いるなら、原典を使用するよりずっと容易なことには違いない。しかし注釈本では、各注釈家の個人的見解や一面的な解釈が少なからず入り込むことは避けられない。さらに、何百とある注釈本の中から、どれが一番よいのかを決定することも困難である。別の言い方をすると、『傷寒論』は注釈本で勉強するよりも、原文で勉強した方が、ずっと正確にこの本の精神が把握されるだろう。そうは言っても、現代人が『傷寒論』の原文を読みこなすのは難しい。その最大の理由は、これが古代漢語で書かれている点である。よって、『傷寒論』がよりわかりやすく読めるよう、現代語に翻訳したのが本書である。これこそが、私たちがこの度『宋本傷寒論』を編著した動機と目的である。
 翻訳作業を進める前に、解決しておかねばならないいくつかの問題がある。
 その一。全条文を収載。『傷寒論』の注釈には、ほとんどすべての医家は、『太陽病の脈証并びに治を弁ず』に始まり、『陰陽易差えて後の労復病の脈証并びに治を弁ず』で終わる、いわゆる三百九十八条の節本を使用している。このような条文の取捨を行った節本をテキストとして選ぶと、『傷寒論』の全貌を系統的かつ全面的に理解する上で、不利益とならないか懸念される。そこで、『傷寒論』の全貌を客観的に示すため、テキストとして、北宋の治平二年(一〇六五年)に宋朝医務官僚であった林億らが校訂し、明代の趙開美が復刻した全十巻二十二篇の版本を使用することにした。
 その二。翻訳のスタイル。古文を翻訳する場合、直訳するのが一番よい。この方法ならば、原文の文字が持っている特徴や意味を比較的正確に表現できる。よって本書では、原則として直訳のスタイルをとった。しかし、時には直訳で意味がはっきりしない場合もあり、適宜、意訳した。
 その三。難解な文字や単語の処理。原文には読みや意味がわかりにくい文字や単語が、いくつかでてくる。これらの意味がよくわからないと、原文の正確な理解は困難である。それゆえ、本書ではこのような文字や単語は、「小注」として解説を加えた。
 その他。読者の学習の助けとなるよう、条文ごとに、その内容を要約した「要点」を記した。適当な箇所に、そこまでの概略を表した図表を掲げ、全体的な流れが理解できるようはかった。
 最後に少し説明を加える。『傷寒論』の「すべき病」や「すべからざる病」諸篇、例えば、「発汗すべからざる病の脈証并びに治を弁ず」、「発汗すべき病の脈証并びに治を弁ず」、「発汗後の脈証并びに治を弁ず」などの諸篇中の多数の条文は、「三陽」篇と「三陰」篇に既出である。それで、既出の条文については、書き下し文、口語釈、記載箇所は示したが、小注と要点は省略したので、必要があれば「三陽」「三陰」篇を参照して頂きたい。


宋本(版)『傷寒論』について

 現在『傷寒論』と呼ばれている医学経典は、もとの名前を『傷寒雑病論』と言い、東漢末期に、張仲景によって著された。なお、『傷寒卒病論』の名もあるが、「卒」は「」の俗訛(「」は「雑」の元字)と考えられている。仲景の著した『傷寒雑病論』の原書は、完成して半世紀もたたないうちに失われ、今日まで伝わっているわけではない。仲景の著作は散逸したあと、歴史上のさまざまな時代において、それらを蒐集、保存、復元する努力がなされた。その結果、『傷寒論』は現代まで伝来してきたのだが、現行のものがはたしてどれだけ正確に、仲景の原著を再現しているか、現状では知るすべがない。以下に伝来の歴史的経緯について概述する。
 張仲景は、漢代末期の南陽の人で、名を機と言い、仲景は字である。官吏登用試験である考廉に挙され、長沙の太守に任官した。はじめ、医学を同郡の張伯祖より学んだが、学識技術は師をしのいだとの評判であった。自序によれば、多数の親族を傷寒で失い、これが動機となって、『傷寒雑病論』を著した(紀元二〇六年頃)。しかしこの書はまもなく戦火に遇い、散逸してしまう。その後約半世紀を経た頃、西晋の太医令であった王叔和は、仲景の残した文章を蒐集して、彼の著作の『張仲景方論』(現存せず)及び『脈経』に収めた(二五〇年頃)。これらは、歴代の医家たちによって書き写され、それがまた別の書に引用されたりをくり返すうち、種々の異なる伝写本が出現する結果となった。例えば、唐代の孫思が著した『千金要方』、同じく孫思?の晩年の著作である『千金翼方』(六五五年頃)、そして王燾の『外台秘要方』(七五三年)などは、仲景の文章を収録しているが、それぞれの記述に相違があることから、異なる伝写本から引用したと考えられる。なお、日本に伝わる「康平本」、「康治本」も唐代の数ある写本に由来するものと考えられる。
 唐代末、高継沖は傷寒論を整理復元した(高継沖本)。宋が国をうち立ててまもなくの開宝年間(九六八年~九七五年)、継沖は節度使に任ぜられた際、この書を朝廷に献上した。高継沖本は政府の書庫に収められたが、出版されるには至らなかった。しかしその後、宋政府が諸家の医方を蒐集して『太平聖恵方』を編纂した時(九九二年)、高継沖本がとり入れられた。『太平聖恵方』中の傷寒部分は、「淳化本」と呼ばれているが、現行の傷寒論とは大分異なっている。
 宋政府は医書を整理校定する機関である校正医書局を設立(一〇五七年)し、林億らの儒臣を作業にあたらせた。彼らは『傷寒論』(一〇六五年)、『金匱要略』(一〇六六年?)、『千金要方』(一〇六六年)、『千金翼方』(一〇六六年?)、『脈経』(一〇六八年)、『外台秘要方』(一〇六九年)その他を校刊した。傷寒論は、先の高継沖本を藍本とし、当初は大きい文字で印刷した大字本が出版された。しかし高価なため普及せず、その後、小字本が出版された(『傷寒論』の牒符にこの経緯が記されている)。宋朝が刊行した大、小字本の傷寒論を「宋本」という。しかし小字本も、内容自体が難解なため、広く流布するには至らなかった。替って、宋本をもとに成無己が注解を施した、いわゆる『注解傷寒論』(或いは「成無己本」、一一四四年撰成、一一七二年初刊)が普及した。
 明代、当時の蔵書家であった趙開美は、傷寒論を復刻(翻刻)した。彼の「仲景全書刊行の序」によれば、当時入手できたのは、成無己本であり、まずこれを校定復刻した。その後、幸いにも宋本を手に入れたので、併せてこれも複刻し、『仲景全書』と名づけて刊行した(一五九九年)。彼は、明代すでに宋本は稀少となっていたと記述しており、もちろん現存していない。『仲景全書』に収められた傷寒論(趙開美本)が最もよく宋本の面影を留めていると考えられる。それ以降の宋本は、ほとんどが趙開美本を写したものなので、字句の相違を生じている可能性がある。だから、テキストとしては、趙開美本そのものが使用できれば、最善である。
 明代に出版された『仲景全書』は、少なくなってしまったが、北京図書館、中医研究院、日本内閣文庫などに現存している。今回底本として用いたのは、北京図書館の所蔵(銭超塵氏によれば、中医研究院所蔵のものと同一版本)になる明刻の仲景全書に収められた傷寒論である。
 この趙開美本では、弁太陽病脈証并治上第五以降の毎篇(弁不可吐第十八、弁可吐第十九を除く)の最初、従来の条文の前に「小目」を載せている。小目はその篇の内容をまとめて条文化したものである。一般には省略されることが多いが、趙開美本の全貌を示すため、今回これらを収録した。
 以上は、次の文献にもとづき、生島忍が書いた。

〈参考文献〉
中医文献学 馬継興著 上海科学技術出版社 一九九〇年。
傷寒論校注 劉渡舟主編 人民衛生出版社 一九九一年。
傷寒論 臨証指要・文献通考 劉渡舟・銭超塵共著 学苑出版社 一九九三年。
傷寒論・金匱玉函経解題 小曽戸洋著(明・趙開美本『傷寒論』他全三巻に収載)燎原書店 一九八八年。