▼書籍のご案内-序文

難経解説

はしがき

 このたび,『難経訳釈』の,日本語による完好の翻訳が,ここにできあがった。
 中国医学の古典著作として,この『難経』が,『黄帝内経』の趣意を継受したものとして,古来ながく尊重されてきたことは,周知のことがらである。
 この古医書の,生理・病理・診断・治療の,おのおのの基本的な考え方にたいして,古くから高い評価があたえられてきた。ことにその診脈について,「独取寸口」説は,後世の脈診学にふかい影響を伝えている。
 さて,本『難経訳釈』は,中国医学を学ぼうとする中国本土の初学者にむけて,原書の主旨と原文そのものを平易に紹介する内容の,中医書シリーズとして刊行されたものの,1冊である。


・難経訳釈 第2版 南京中医学院医経教研組編著
上海科学技術出版社 (1961・11初版) 1980・10 第2版

 これが,このたび翻訳を行ったそのテキストである。ちなみに,南京中医学院が各古医書の教研組編著として公刊してきた同じシリーズのものとしては,

・黄帝内経素問訳釈 第2版 上海科学技術出版社 (1959・6初版) 1981・10 第2版
・黄帝内経霊枢訳釈 第1版 上海科学技術出版社 (1986・3初版)
・傷寒論訳釈 第2版 上・下冊 上海科学技術出版社 (1959・4初版) 1980・10 第2版
・金匱要略訳釈 第2版 上海科学技術出版社 (1959・10初版) 1981  第2版

などがある。
 この『難経訳釈』書の全体の構成については,すなわち原書『難経』の“81難”を6章にわかち,

 第1章 脈学(第1難--第22難)
 第2章 経絡(第23難--第29難)
 第3章 臓腑(第30難--第47難)
 第4章 疾病(第48難--第61難)
 第5章 ユ穴(第62難--第68難)
 第6章 針法(第69難--第81難)

の,“81難”の各「難」節ごとに,この漢魏期に成立した医学古典の原文を掲載し,その本文にみえる語彙の解釈(「注釈」)と現代中国語による逐語訳(「語訳」)をほどこし,そのあとに各「難」節についての本文解説(「釈義」)と当該「難」のポイント(「本難要点」)を加えることによって,原書『難経』がそなえている系統的かつ完整な内容を闡明している。
 そもそも,本『難経』についてはもちろん,中国医学の古典著作といわれる古医書群と,その背景をなす奥行きの広い中医全般に関して,私は知識も低く,関心もそれほど強いものではなかったのである。このたびの監訳という役目は,したがってそんなに軽いものではなかった。
 陰陽思想といった中国に固有の有力な考え方があり,およそ中国文化を見るものにはそれを抜きにしては,何もはじまらないほどの中国思想史のうえの重大な思考形態である。その陰陽五行思想の基本的な構造について,史的展開とその特徴をとらえようとして,われわれはかつて共同研究の報告を行った。『気の思想--中国における自然観と人間観の展開』(東京大学出版会,1978)がそれである。
 秦漢の交に主要思潮となったこの陰陽家説は,司馬談の「六家の要指」によって伝えられるのによると,則天主義を軸とする自然運動理論である。すなわち宇宙のひろがりと時間の流れのなかで自然世界,それは人間の生の営みをも包含しており,この自然--天地,万物の世界に関する運行とその生滅のしかたを説明する理論である。天体運動と人間世界,特に治政行為とが照応しあうとする,陰陽五行説による天人感応の休祥災異思想は,暦数に代表されるように,この陰陽家理論の応用をきわめた一分野でもあった。中国における政治理論にみられる治民思想は,ほとんど董仲舒いらい,おおむねこの陰陽災異説の思考形態を基礎とする天人相関の考えであり,それは,天体の正常な運行に人治を順応させようとする,人間社会の調和理論でもある。天候の順不順と人事のそれが照応しあうのであって,為政当局はその調節可能な治政行為を操縦する政術--道芸の執行者にほかならない。つまり,則天主義の政治形態である。
 しかしながら,他方この陰陽説は,ひろく生命体にも適用された。生物の生育・盛衰・枯死のサイクル運動も,陰陽両気の変相と調和の理論の掌中にあった。中国古来の医術にみられる治病理論は,この陰陽家理論の展開する,また一方の大きい分野である。
 この医学理論については,私はほとんど無知である。すでに5年以上もまえ,北京に滞在していたとき,魏正明・王碧雲夫妻の両先生から中医の諸理論のほんの緒ぐちを手ほどきされたことがある。その魏正明先生はもう故人になられた。烏兎勿勿,年月を経るうちに,ある日,この『難経訳釈』1書を選定したといって,山本勝曠氏が現れた。
 山本氏は,季刊『中医臨床』を刊行している東洋学術出版社の経営者である。と同時に,ひろく中国医学の水準とわが国の中医学の現況に通じた,熱意あふれる出版文化人である。もう30年近くになるが,かつて京都の極東書店で,中国専門書のお世話になった篤実の書肆マンであって,この人の依頼はすべて拒みがたく,非専門の私が,ここに一文を書いている次第である。
 すでに,浅川要・井垣清明・石田秀実・勝田正泰・砂岡和子・兵頭明の6氏によって,訳出されていた本書を枚正するかたちで私は審閲の機会を得た。石田秀実・浅川要両氏には,特にその専門とする分野から全体の訳語や文章の整理を心がけてもらった。
 なお,原書にはなくて,本書に新たに加えられたものに,「原文」にたいする「書き下し」の部分があって,これはいわゆる原文の訓読である。医学を活用して臨床に従事する人たちが,東洋医学の分野では漢文に習熟しているという慣わしを考慮しなければならない現況をふまえて,一応の「書き下し」文を附することとした。ただし,この部分を読んで,ただちに原文の意味を理解しえたと,即断しないでいただきたい。必ず「現代語訳」を熟読し,「注釈」をあわせて読んでほしい。いろいろな疑問が,この間に伴って生起してくることが予想されるが,そのときこそ,本書がこの『難経』そのものの研究の向上に果す起動力となってくれるはずなのである。

戸 川 芳 郎
東京大学中国哲学研究室にて
1987年1月10日