▼書籍のご案内-序文

現代語訳 黄帝内経霊枢 上・下巻

前言

  『霊枢』は中国に現存する重要な古典医籍の一つである。晋の皇甫謐『甲乙経』の自序に、「『七略』『芸文志』を按ずるに、『黄帝内経』十八巻と。今『鍼経』九巻、『素問』九巻あり、二九十八巻は、即ち『内経』なり」という記載がある。また、唐の王冰の次註本『黄帝内経素問』の自序に、「班固の『漢書』芸文志に曰く、『黄帝内経』十八巻と。『素問』は即ち其の経の九巻なり、『霊枢』九巻を兼ねて、乃ち其の数なり」とある。唐・宋以後、『霊枢』に対する諸家の考証には異なる考え方も併存しているが、この二つの序文に基づいて、『霊枢』はすなわち『鍼経』であり、『黄帝内経』の構成部分であるということについては、歴代の学者の見解はほぼ一致している。
  『霊枢』の医学理論体系は、『素問』と一致している。どちらも陰陽五行説と天人相関説という観念体系によって、蔵象・経絡・病機・診法・治則など医学の基本理論の思想を説明しようとする。具体的内容について見ると、『素問』と内容が同じ部分のほかに、『霊枢』には『霊枢』独自の論を展開している部分がある。なかでも、経脈・穴・刺鍼及び営衛・気血などは、とりわけ系統的で詳細に説明されている。したがって、『霊枢』と『素問』の二書は、中国医学の源泉であり、この二書によって中国医学の主要な理論的基礎が定められたと言える。
  『霊枢』と『素問』は、ともに「文簡にして義深し」(文章は簡略ではあるがその意味するところは深奥だ)とされる古典的著作である。両者を比べると、いくらか違いはあるけれども、初学者にとっては、『霊枢』の原書を読むときのほうが、きっとより困難に感じるだろう。したがって、なんとかして万人に分かりやすく、簡単明瞭、読者が内容を理解して運用できるようにするためには、現代語で訳釈を加えることが、差し迫って必要なことは明らかである。また、中医学の教育と学習にとっては、『霊枢』も重要な参考資料である。そこで、一九五七年、われわれはこの『黄帝内経霊枢訳釈』の初稿を編集し、教育教材として使用する過程で、さらに数回の修正改訂を行ってきた。一九六三年、上海科学技術出版社の要請を承けて、本書の出版計画を立てたが、その後種々の原因により計画通りに出版するにいたらなかった。今回その時の原稿を調べてみると、すでに大半が散逸していた。今回の原稿は、孟景春、王新華両先生が所蔵していた原稿を基礎に、新しく編集し直したものである。錯誤と不当のところがあれば、読者各位に批正と示教を請うしだいである。
 本書の原文は、明の趙府居敬堂刊本を主テキストとし、同時に『医統正脈』本及び『甲乙経』『黄帝内経太素』等を参考にして若干の文字を訂正した。体例は、『黄帝内経素問訳釈』と同じくし、一致を求めた。

編 著 者
一九八〇年八月


監訳者まえがき

  『黄帝内経霊枢』、略して『霊枢』と呼ばれているこの書は、『黄帝内経素問』と並ぶ、最も古い、最も根本的な中国伝統医学の経典である。『素問』と比較すると、『霊枢』は基礎理論も説いているが、むしろ診断・治療・鍼灸施術法などの臨床技術を説くことに力点をおいた医書であると言える。
  『霊枢』という書名が現れるのは、かなり遅く、王冰の「素問序」(七六二)が最初である。それ以前、この書は『九巻』『鍼経』の名で呼ばれ、また『九霊』『九墟』の名で呼ばれていた。『九巻』という書名をもつ医書は、今では散佚して伝わらないが、その書名と佚文は古来多くの書に引用されている。それらの佚文を現存する『霊枢』の文と対照すると、大部分が同じ内容である。一方、『鍼経』は皇甫謐の『甲乙経』(三世紀中頃)にその大部分が、王叔和の『脈経』(三世紀後半)にその一部が引用されて残っている。これらの引用文は、現存する『霊枢』とほぼ重なり合う内容である。さらに、唐代中期に、王冰が『素問』に注釈を付けたとき、『鍼経』から引用しただけではなく、当時あった『霊枢』からも大量に引用している。両者の佚文を分析すると、王冰が見た当時の『鍼経』と『霊枢』は、ほぼ同一内容のテキストであったと推測できる。『霊枢』は、魏晋から唐の時代まで、多様な形の異本として伝えられていたのである。
 『素問』と同様、『霊枢』という書物の成立事情についても、明白なことはあまりない。『素問』と『霊枢』のもとになった『黄帝内経』という書物が、紀元前二十六年までに、宮廷医の李柱国によって、いくつかの医学書をまとめる形で編纂されたことは、確かである。しかし、その後、いつ、誰によって、この『黄帝内経』をもとに、『素問』と『霊枢』という書物が再編纂されたのかは、明らかではない。ただ、現時点での研究成果をまとめると、次のように言えるだろう。「現存する『素問』と『霊枢』の原型は、二世紀の初め頃から三世紀の中頃の間に、『漢書』芸文志に記載されている『黄帝内経』十八巻を中核として、それに大幅な増補を加えて、二つの書として編纂された」と。
 王冰は『素問』を再編纂し、その注釈を作ったが、『霊枢』の注釈は作らなかった。唐末・五代の混乱を経て、北宋に伝えられた『霊枢』の各テキストは、すでに不完全なものであった。そのため、一〇九三年、北宋政府は高麗政府に依頼して『鍼経』を逆輸入し、その写本をもとに、書名を『霊枢』と改めて、初めて刊行した。しかし、南宋初期になると、『霊枢』の各種テキストは、再び散佚の危機に直面した。一一五五年、南宋の史崧が家蔵の『霊枢』を新たに校正し、二十四巻八十一篇として、音釈を付して再刊した。現行の『霊枢』は全てこのテキストに基づいている。
  『霊枢』全体に対する注釈本は、十六世紀になるまで現れない。また、注釈本の数も『素問』に比べると少ない。主要な注釈書は、馬蒔の『黄帝内経霊枢注証発微』(一五八六)と張志聡の『黄帝内経霊枢集注』(一六七〇)である。ただし、『太素』(七世紀後半)は『素問』と『霊枢』二書を合わせて再編纂したものであり、楊上善は『太素』全体に注を付けているから、不完全ながらも古い注は存在する。また、張介賓の『類経』(一六二四)も馬蒔・張志聡と並ぶ重要な注釈である。そして、本訳書の原書である『黄帝内経霊枢訳釈』(上海科学技術出版社)が主として依拠しているのも、以上に挙げた楊上善・馬蒔・張介賓・張志聡たちの注釈である。
  『素問』と同様に、あるいは『素問』以上に、『霊枢』を読むことは難しい。最も大きな理由は、この二書が漢代に書かれた古典であり、かつ技術の書だからである。古い技術に特有の用語は難解である。それに加えて『霊枢』の場合は、現行のテキストのもとになった史崧のテキストが、基本的には、唐以前の古い姿を保存している、と考えられるからである。『素問』や『霊枢』を読むために必要なのは、この二書が書かれた当時の言語と医学の知識である。ところで、当時の医学の知識、しかも最高レベルの知識を知るための資料として私たちが手にしうるものは、今のところ、『素問』と『霊枢』だけなのである。
 結局、歴代の注釈を頼りに、『素問』や『霊枢』を読み解いてゆくことになるのだが、本訳書の原書である『黄帝内経霊枢訳釈』の立場は、歴代のさまざまな注釈の中から、最もふさわしいと思われるものを、そのつど選んでゆき、さまざまな注釈の善を採りつつ、独自の読解を試みるというものである。しかも、楊上善を除けば、『霊枢』の代表的な注釈は、いずれも明清のものである。この読解の方法は、古典を厳密に読むという立場からは、最上の方法とは言えないが、現代中医学の中に古典をよみがえらせようとする立場からは、許されるものであろう。姉妹編『現代語訳黄帝内経素問』の「まえがき」で、監訳者の石田秀実氏は、次のように述べた。「現代中医学がその基礎においている伝統医学とは何か、という方向から『素問』を読むとすれば、むしろこうした明清の注釈の方にこそ、私たちは注意を向けるべきなのかもしれない」と。『霊枢』についても同じことが言えるであろう。
 原書の原訳は、主に明清の注釈家たちの読み方に依拠しつつも、独自の訳として作成された、一つの解釈である。そして、本訳書の現代語訳は、原訳をできる限り忠実に翻訳したものであり、書き下し文も原書の読みに合わせている。厳密な古典学の立場から見ると、問題もあるだろうし、訳しすぎていると思われるところもある。しかし、姉妹編と同様、技術の書に特有の難解な用語の意味を明確にするための試みとして、了解していただければと願う。
  『現代語訳黄帝内経素問』が出版されてから、すでに六年が過ぎ、今ようやくその姉妹編を世に送ることができた。現代中医学を学ぶ人たち、中国伝統医学に興味を持つ人たちに、中国伝統医学の経典である『素問』と『霊枢』を古典原文の形で通読していただければ幸甚である。原訳をさらに日本語に訳すという重訳である。誤りも多いことと思われる。また、訳者諸氏のせっかくの努力の成果を、監訳者がだいなしにしてしまってはいないかと恐れる。ご批正ご教示を心より願うしだいである。
 本訳書は、当初、姉妹編『現代語訳黄帝内経素問』の監訳者でもある石田秀実氏を監訳者とし、私も翻訳者の一人として加わるというかたちでスタートした。その後、石田氏は体調をくずされ、私が監訳を手伝うことになった。二年前の春のことであったか、ほとんど死の世界を覗いて生還した氏から、後はまかせる、と言われた。そのとき、この困難で忍耐を強いられる監訳の仕事を断らなかったのは、氏の病の重さを知っていたことと、氏の遺言ともとれる手紙のためであった。幸い、石田氏は、生還したばかりか、以前と変わりない旺盛な研究活動を再開するまでに回復された。元気な氏とともに、本訳書の出版を見届けることができたことは、望外の喜びである。
 本訳書が形をなす間に、悲しい出来事もあった。翻訳メンバーの一人であった小林清市氏が急逝されたことである。氏は、京大時代の私の先輩であり、日本における数少ない中国科学史研究者の一人であった。残念ながら、氏の翻訳を本書に載せることはできなかったが、当初の翻訳メンバーの一人として、ここに小林清市氏の名を記し、ご冥福を祈りたい。

白 杉 悦 雄